今年の正月2週目くらいに霧島神宮に初詣に行きました。
自分にとって霧島神宮は小学生の頃にきたときのことが印象深いです。
奥深い山の中、門前の土産物街を抜けて大きな鳥居をくぐりました。
子供の足で長い長い石段を息を切らせながら登ると、今度は広い石畳の参道でした。
背の高い木々と緑のコケに覆われた、うっすらと霧のかかった参道をしばらく歩くと、奥に朱色の鮮やかな神宮が見えました。
疲れも忘れて思わず走り出していきます。
父母兄と一緒にお参りして、境内の池をのぞき込んだり、巨大なご神木を見上げたり。
山奥の大きな神社とご神木とがあの時の感動で今でもありありと思い出せます・・・
大人になって今行くと、石段を登るのに疲れると思うほどのことでもなく、子供のころのように周りのものに巨大な印象を受けませんし、結構あっさりとお参りができてしまいます。
こんな時つい「子供のころのような鮮やかな感性はもう戻らないんだろうな」みたいに思ってしまいます。
でも、本当にそうでしょうか?
大人には大人の目だから楽しめるものがいくらでもあります。
例えば木々におそらく樹医さんが貼ったであろうタグを見つけて、神宮を整備するたくさんの人を思い浮かべました。
例えば鳥居の真ん中に菊の御紋を見つけて、皇室とも縁のあるのかと想像しました。
参道の出店屋台を見て、こういったメニューにも流行り廃りを感じ、原価が安くて子供が欲しがるのはどれだなんて考えました。
そういった今だから感じられる感動を再確認し、子供のころにも負けていないぞと思いました。
そこでさらに気づきました。
そもそも勝ち負けでもなんでもないのです。
子供のころ感動したことは純粋にうれしいことで、それを思い出せるというのもまたうれしいことです。
今は今、またこの場を感じればよくて、比べてどうこう思う必要なんて全くない。
感情は他人と比較するものではないとは常々思っていることですが、昔の自分と比べるものでもないのです。
他と比べて感じようとするなんて、今に集中していない証拠かもしれません。
今、この場を感じることを楽しめば、それでいい。
そのうえで、昔を楽しむもよし、今を楽しむもよし。
そう思うことで今後さらに年を取ってからもずっと楽しい自分でいられる確信が一層深まった年の初めでした。