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自分の範囲

自分って、何を自分と思っていますか?
一般的には、心と体とをもって自分だとしています。
そこをもう少し掘り下げてみましょう。

「何かに突き動かされたように激しく怒ってしまった」という表現は別に不自然ではありません。
このとき、突き動かしたものは恐らく自分の中の無意識ですが、無意識の部分をまるで自分ではないものとしてとらえていることがわかります。

「脚が棒になった」という表現があります。
明らかに自分の脚なのに、棒という自分の身体じゃないみたいに感じているということになります。

こういったことを考えると「自分」というものは、自分と感じる範囲があって、それは程度問題であり、時々刻々と変化するものだということが分かります。

何をもって「自分」と感じるのか?
恐らくそれは「操作性」と「感受性」だと思います。

「脚が棒になった」場合、思い通りに操作できない、しびれたように感覚も鈍っています。
「突き動かされたように動いてしまう」場合、自分が認識していなかった、つまり感じ取ることも操作することも無かった無意識を自分ではないと感じているわけです。

逆に、腕のいい職人は、道具を体の一部のように感じているといいます。
思い通りに操作して、道具の重心や道具に触れたものの固さなど微妙なところまで感じ取っているという意味だと思われます。

ヨガの行者のように自分の心の無意識の部分を深く探求している人は、普通の人にとって無意識の部分を感じ取ろうとし、操作しようとして、より無意識側にまで自分の範囲を広げていると言えます。

社長が「自分の会社」という場合、「所属感」もあるかもしれませんが、自由に中身を見ることができるし、方向性などを決めることもできるという意味で自分の一部と感じているということもあるのではないでしょうか?

「自分」と感じられるものは、自分の身体と顕在意識の範囲を超えて、内側にも外側にも広がっていくと思っています。

自分の範囲を広げることで、僕たちはより大きくより思い通りに物事を成し遂げていくことができるのではないでしょうか?

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