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いたわり癒すこと

人から何か言われて傷つくことがあるかもしれない。
何かを言われて傷つくとき、実は誤解であることも多い。
逆に、悪意を向けられても全く平気な場合もある。

私が傷つくかどうかは、私の中の癒えていない痛みと反応してしまうかによるのではないか?

人にいじめられた痛みにとらわれていると、別の人から悪意なくいわれた言葉にもいじめられた記憶を重ねて傷ついてしまうかもしれない。
逆に私が万全な態勢で大丈夫だと思っていることについて人から批判された場合、説明して通じ合えなくても傷つくことはない。

人は人、それぞれの事情によって生活して行動している。
「信じていたのに裏切られた」という思いを抱くことがあったとしても、私の中でのその人の行動予測が外れたに過ぎない。

悪意を持つ人からはできれば遠ざかればいいが、悪意を抱かれたといっても傷つく必要はない。
その悪意さえも私の中での思い込みの幻だったりもする。

その人はどうしてこういう行動をとったのだろう?
どうしてこういう言い方をしたのだろう?

そこを分析していくとその人の事情や心情がわかってくる場合もある。
その人も大変なんだなと同情したりもする。

自分が傷ついてそこにとらわれてしまうと、人の痛みは見えない。
自分が傷ついたとしても、自分を癒していくと、似たような痛みを持った人のことが想像しやすい。
傷ついた経験は、いつか人を癒す力になる。

傷ついた自分に、なんで自分は傷ついたのだろうと目を向けていく。
「~だからだ!」と安易に断定しない。
断定するとそこで考察や自分に対する思いやりが止まってしまう。

「~だからかもしれない」「~の面もある」そう思って引き続き考察を続けていると、痛みは分析対象になって解体されていく。
あるいは具体的な対処の準備や心構えをすることで安心できたりもする。
痛く思う自分自身に対しても、そうやって自分を守っていたんだねと、いたわりながら把握していく。
痛みを分析して解体していくと、傷つくことが少なくなってこの世の中はより安全になっていく。

安全な世の中とは、自分と世の中の安全なかかわり方のことかもしれない。

身体的な危害をもたらす人や物への対処は厳重に行う必要がある。
それでも、精神的に安全な世の中は自分の中の痛みを癒していくことでかなり実現していくことができる。

自分だけでなくいろいろな方にとって安全な世の中を実感する助けになりたい。

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