禅問答で、手を打ち合わせて音を鳴らしたとき、右手が鳴ったのか左手が鳴ったのか?と言ったものがあるそうです。
もちろん、右手だけでも左手だけでも音はなりません。
私はこの問いかけから「自分」について考えることがあります。
友達と話しているとき「自分ってこんなことを思っていたんだ、この人と話さなかったらこんな自分って発見できなかった」と思うことってありませんか?
この時発見した自分は間違いなく自分の一部です。
ただ、友達と話さなかったら見つけられなかったということは「自分と友達との間に発生したもの」と考えるほうが適切ではないでしょうか?
ということは自分と友達と両方がそろわなければ新たな自分は生まれなかったのです。
このことはいろいろなことについて成り立ちます。
本を読んでいるうちに新たな自分に気づくこともあるでしょう。
素晴らしい景色を見て感動した自分は、その景色と自分と両方がそろわなければ成り立ちません。
この文章を読んでなにか発見したならば、この文章と自分の両方が共同で生み出したものです。
新たな自分や発見を自覚しなくても、例えば信号待ちをするとき、「信号がこの瞬間に赤だったから信号待ちをしている自分が生まれた」ともいえるわけで、
日常のありとあらゆるところで「環境に反応している自分」が瞬間瞬間で生まれては消えているわけです。
そう考えると、自分というものは個人の脳と身体とに閉じたものではなく、世界全体と相互作用しながら瞬間瞬間で生まれながら消えていくものだということができます。
いうなれば宇宙全体が自分ともいえるわけです。
なんか壮大な気分になってきませんか?